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              機関紙 「からばす」19号から

巻頭言(継続は力)  在マリ大使館が開設  3NGOパネル討論会  現地活動報告(1)  (2)  (3)  (4)  (5)
  在マリ日本大使館が開設しました。                 村上 一枝

 2008年1月から2月にかけてマリの活動現地を視察しました。
1月中はとても寒くて、厚手の上着が必要な日々でしたが、2月中旬には35度以上の暑さになってしまいました。やはり暑くなるのが以前より早くなっています。2008年1月に開設された日本大使館はまだ場所が確定しておらず、ホテルの一部を借りて日本からの臨時代理大使と書記官、加えて数人のマリ人が任務についておりました。今後は用事のたびにダカールの日本大使館へ出向く必要もなくなり、私たちにとって、とても心強くなりました。

 私の今回のマリ滞在中には、サッカーのアフリカカップがガーナで開催され、大変な盛り上がりでした。マリチーム応援用グッズが町で多く売られていて、それらは、国旗の緑、赤、黄色の3色を使った上着、ブレスレットやイアリングもあり、老婦人から子供までマリ国旗一色のいでたちで、国民あげての応援でした。しかし、試合ではマリのチームは3戦して2試合負け、1試合は引き分けの成績でした。試合の後は、人々は「バロンタン」(バンバラ語でサッカーの試合の意味)の「バ」も口にしたくないと言い、"海外で活躍する選手が多く試合に出ているのにこのざまは、何たることか!!"と大不満でした。引き分けた試合での1点だけがマリチームの取得点でしたが、その夜には、市街地では自動車から体を乗り出した若者たちや、バイクに乗った若者たちのジグザグ運転、ホイッスルを吹いての歓喜の叫び、それと路上で踊り狂う人たち、警官の静止を聞かない人たちが引き起こした交通事故が発生し、大変な騒ぎの夜でした。マリチームが負けた後は街は静かになりましたが、その後はマリ国民と感情的に合わない、コートジボアールやギニアの試合の時には、対戦する国のチームへ猛烈に応援して、その国が勝利するとその夜はまたマリが勝利したような騒ぎで、国民感情がはっきりと表れていました。
 また2月の1,2日は、セグー市の年1回のイベント「ニジェール河畔祭り」が開催されました。ニジェール河に浮かべた装飾を施した船の上に舞台を作り、演奏やダンスが繰り広げられ河畔にはレストランや民芸品の店が並び、地域のNGO団体の出店も見られ、特に夜間は賑やかでした。この時期に多い観光客目当ての祭りですが、マリの工芸や芸能を見るのにとても良いチャンスで、多くの観光客が押し寄せていました。地方分権性になってから、地域の復興のためにこのようなイベントが多くなり、ジュネやモプチでもオリジナルなイベントが開催されていました。

 前置きが長くなりましが、カラの活動は2007年度の事業もほぼ終了して、2008年度へ向けた外務省の日本NGO連携無償資金協力による事業が準備されています。その事業には、念願の自動車の購入も許可されました。事業の進行で一番消耗し費用がかかるのが自動車の維持管理です。それから、マフェレニ村へ中学校を建設することになりました。このマフェレニ村には、1997年に小学校と診療所を建設し、以後は住民に役立っています。小学校へ就学し、更に中学校へ進学する生徒が増えた為です。この村の近くには中学校がなく、バマコ市やヤンホイラ村やブグニ町の中学校へ進学していますが、どうしても下宿しての進学になります。子供を下宿させることは両親にとって経済的な負担が大きいので、負担のかからないよう通学可能な村内へ中学校の建設を希望していました。この中学校建設は2年前から要請がありました。
ヤット2008年度に実現します。

 カラが以前に小学校を建設した村では、このマフェレニ村のような状況になってきました。事実、学校教育が盛んになってきたことの証明と思います。文字を知らなくても、それなりに穏やかに、平和に生活していた人たちですが、カラが識字学習を普及し、部族語の学習を通して教育の大切なことを知り小学校の開設を望み、更に中学校をも望むようになりました。実現できるかどうか分かりませんが、将来は、牧畜や農業、林業の技術者を育成する技術学校の建設の要請も来るようになりました。これはたった10年間での変化です。このような現象は教育面だけでなく、他の活動でもゆっくりですが確実に進歩しています。人々の潜在能力が発揮され、将来が楽しみです。